history身の上話&こぼれ話・・・


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ジャ~ン!!   b(a^ゞ^r)in. の紹介です。 先はb(a^ゞ^t)an.と言われてました。 目下 未【美】亡人やっております。 ○○才

ミステリー小説が好きで、書くことが好きで、探偵の仕事もしてみたいなあ~なんて この年で未だに、いろんなことに憧れているんです。
パソコンを始めて、書きたい事を、webに載せてみようと思い、ホームページを公開しました。

死ぬまでに したい事。   やっぱり一軒家に住みたい! 若い時憧れだったハイツ(アパート) JIJI との生活で住めたし、マンションもローンだけど買えたし、もう一度一軒家を建てたい。。
だってね、今のマンション3NLDK Nってなんだかわかります?
納戸です! 6畳はあるんですが、窓が小さいし北側で冬は北極です。 広縁のある和室で、一生を終えたい( *´艸`)
今となっては、宝くじでも当たらなきゃ無理ですけどね($・・)/~~~ 半分を学校給食センター建設に寄付しよう(今は家族に老人ホームを造れ!)と言われています。
実現はしそうにありませんが…

2歳の時弟が亡くなり、12歳で母が病死、19歳で父も病死、1人ぼっちのとき知り合ったJIJI も・・・肉親の縁が薄かったb(a^ゞ^t)anにとって今の家族は宝物です。
母の生きた年(43歳)もとっくに越える事ができました。

波乱万丈の60余年。身内に縁の薄かった私、その時・その時を、今・今を幸せと考えてここまで来ました。この先は、何があるか・・・

20・30・40・50…年前の様子を、b(a^ゞ^r)in.の体験を交えて書いてます。懐かしいと思うか、びっくりするか、共感するかは読んだあなた次第です。



今だから、告白できる b(a^ゞ^r)in. History

 昭和29年1月19日/1954年 父、明治48年生まれ(再婚)・母、大正15年生まれ(病気のため婚期遅れる)の間に滋賀県・○○村で生まれる。 
翌昭和30年1月1日 4村が合併して町となる。(平成17年5町1村が合併して高島市となる)

2つ下の弟は、生後2週間でこの世にいなくなってしまったし、12才で母・19才で父をそれぞれ病気で亡くし、一人ぼっちになる。(叔父、叔母は近くにいましたが)25才の時まで、新聞、牛乳配達業を営み・他、アルバイトなどで生計をたてていました。

 その間にJIJI と知り合い、かっこいい言い方で、恋に落ちたのです。でもそれは、道ならぬ恋(不倫)狭い田舎町での事、大変な噂となりました。 娘を身ごもり、他にもショッキングな事も重なったりで、産む決心をし逃避行。(駆け落ち)・・・この地、○○に住みついて・・・今に至る。

 JIJI は、先妻さんとの離婚話も上手くいかず・・・アルコール依存症となり、今では耳によく聞く、ドメスティックバイオレンス(DV)・病気の悪化(持病の高血圧・糖尿)で左目が網膜はく離で視力低下、脳梗塞の何度かの発作で四肢の麻痺、身体障害者1級となり、入・退院の繰り返し。
b(a^ゞ^r)in. はといえば、Single Mother・仕事をしながらの介護と、ある意味で、流行の先端を行く生活(人生一番底まで行き着いたかもしれません)

 晴れて夫婦になれたのもJIJI が入院してやっと。 とにかく波乱万丈・色々ありました。
b(a^ゞ^r)in.
 も辛かったけど、JIJI はそれ以上に辛かったんでしょうね。だから、大好きなお酒に助けを求めたんだと思います。JIJI には、恨み辛みがいっぱいあったんですが・・・長い介護の間に、全~部どこかに飛んで行ってしまいました。

 子ども2人も非行に走る事無く、それぞれ家庭を築いてくれてますし、今、かわいい孫たちにも囲まれ、好きな事(HP作り)していられるのも、また、幸せというのを実感できるのもJIJI という人に知り合えたからこそだと思っています。

 その数年間の介護が、使命のような気がして取得したホームヘルパー1級資格(介護士)ですが、未だ役立てられていません。
本当はあまりにも壮絶な介護だったので 怖いんです。。

 逃げ出してきた故郷ですが、年を重ねるごとに恋しく感じられます。
この半世紀余を少しづつ書き足していくつもりです。

1954~1965/昭和29年~昭和40年

目が覚めたとき、部屋には誰も居なかった。


 夢の中に出てくるいつもの場面 なぜ いつも同じ? 考えるに・・・b(a^ゞ^r)in.に、両親、兄弟の居ない寂しさの表れか・・・
なぜ!目が覚めたとき両親2人とも居なかったのか。田舎だったのですが、農業だけでは食べていけず、 両親は新聞と牛乳・ヤクルトの宅配を始めていたんです。
ヤクルトアトムズ 【現スワローズの前身】のチームが出来・・・ あのアトムがイメージキャラクター。

就学前のことではっきり覚えているのは、これと保育園のこと。

ほんとに欲しかったのか・・・『私は、タンバリンがいいな』ってクリスマスの劇の場面。 
悪い事したら、入れられるでっかいミルク缶。
従兄弟のお古、『中学生や!!』って囃し立てられ二度と着られなかったセーラー服。 ちゃんと子供用だったのに・・・
使わなくなったオムツで作った雑巾、『ふきんにする』 と言われたと聞き “えっ-!オムツなのに・・・”と子供心に思ったこと。
えいじ君という子が居て、その子のお姉さんがまり子ちゃんといい ままごとの時いつも名前を名乗っていた。えいじ君のこと好きだったのかしら?

今とは違い 保育園もいっぱいなく、隣町まで行かないと・・・  もちろん通園バスなどありません。保母さんが毎日路線バスに乗って迎えに来てくださいました。
中山先生と横山先生。キリスト教の園で、先生のお家まで遊びに行ったことありました。 確か洋服の仕立て屋さん。。
何年か後、横山先生が私の在所のお寺に嫁いでこられ・・・??なんか変
20年ぶりかの春(父の年忌さん)にお会いしたんですが、当たり前の事ながら 好いおばあさんになっておられました。
b(a^ゞ^r)in.が小学校に上がって2年後くらいに町内にも2園出来ました。
両親が、配達や農業の仕事で家に居ないので、ガスや炊飯器は、近所の家より早くから使ってました。大阪ガスのマークによく似た(グロリーガス)だったかな?

そうそう、東京オリンピックが昭和39年/1964に開催され 白黒テレビ(四本足)が家に来ました。ゼネラルだったかな?※五輪白黒です。⇒
裸足で走ったアベベ選手が印象に残っています。 小学4年生。   あっ!家も建ちました。側(外回りだけ・中は後から)

母は、まだ元気?で手押し車で牛乳・新聞を配達してましたし、b(a^ゞ^r)in.もついて回ってました。
1966~1970/昭和41年~昭和45年

この頃 ミゼットが来たのかな?
母は腎臓が悪くて入院したし、病院にはめったに連れて行ってもらえず 寂しい思いをしてました。
家を建てた時の借金で 病院代が払えず 遠くの田んぼを売りました。畑ヶ田と言ってて 父が自分で開墾した田んぼだったんですけど…
結局、修学旅行にも行けませんでした。クラスの男の子がお土産を買って来てくれて  嬉しかったのが思い出されます。 敏一君どうしてるかな?

母の腎臓、50年も前には、人工透析って治療法も無くて…(今は、腎臓移植)ってのもありますが。。。
もちろん高額医療費控除も有るはずありません。で、大事な田んぼを売ったんです。

電話が家に来たのもこの頃、電話機の横にハンドルがあってそれをぐるぐる回すと 交換手が出て 番号を告げる。
《ちょっとした秘話 家を建てたのを機に小さな雑貨屋もやっていました。家はb(a^ゞ^r)in.と父親の2人暮らしで、気楽な事もあり。遠くからお嫁に来た若奥さんが、店に来たついでに実家へ電話。よく愚痴をこぼされてました。恋愛結婚だったようですが、つらかったんでしょうね

中学生になり、部活動が始まり b(a^ゞ^r)in.はバレーボール部に入りました。 ホントは卓球に入りたかったんですが、嫌いだった子が先に入ったので止めたんです。
バレー部のキャプテンは茶色の瞳をした大きな子でした。その子のスパイクは強烈でチームは郡内の強豪でした。
楽しみながらやっていた部活でしたが、母が亡くなった事で…  やる気を無くしてしまいました。

1970年には大阪で万国博覧会が催され…   もちろんb(a^ゞ^t)an は行ってません。 三波春夫さんの歌声がどこででも聞こえました。
1971~1975/昭和46年~昭和50年

毎日を生活して行くのが精いっぱいで 色んな事覚えていません。

昭和47年の春に 運転免許を取得しました。その自動車学校も田舎だから無くて 隣県(福井県敦賀市)まで通いました。 我が町から教習所に教官として勤めている人が毎日マイクロバスで連れて行ってくれてたんです。b(a^ゞ^r)in. にとっては 初めて踏み出した世界とも言えます。

免許を取って父が亡くなるまでの1年半   色んな知識や情報が目まぐるしくb(a^ゞ^r)in. の中に入ってきました。

父の病名は再生不良性貧血(白血病)。。終戦の頃 広島に居なかったかとお医者さんに聞かれてました。父は、インドネシアで終戦を迎えたそうです。
母の時同様、骨髄移植なんて医療技術は……もちろん高額医療費控除もね。 あの時、ヤクルトの会社から、永年勤続って形でお見舞金(30余万円)が出て それを入院費に充てられて助かったことありました。

JIJI 
とは この頃知り合いました。父が仲良くしていた人だったんです。  言い忘れてましたが年の差があったんです。
b(a^ゞ^r)in. が19歳で、
JIJI が38歳  父の面影を求めてたんでしょうかね?


1976~1989/昭和51年~昭和64年 ⇇この年で昭和が終わりました。

不倫・騒動・妊娠… 色々あり この地に逃避行  karponの母親が生まれる前に JIJI の故郷である熊本へ連れて行ってもらいました。 不知火海や天草五橋  こんなに遠く長い旅は生まれて初めてでした。

とにかくはお腹の子を無事に産まなくては  昭和54年11月 助産院で、娘を生みました。
元気な子 とは言えず、産声を上げなかったので 大きな病院へ連れて行かれたんです。娘だけ… 何も聞かせてもらえず心配で心配で、お乳は張ってくるし  五日ほどして元気に帰ってきたのでやっと安心できました。 以後、元気で丈夫で今に至っています。 
娘が1歳になって近くのスーパーへパートに出ました。 けれど、土日は JIJI 見ることとなり 喧嘩に…
翌春には保育園にも入れられる事となり 今度はクリーニング店で働く事に。 この時の保育園との出会いが今の b(a^ゞ^r)in. に大きな影響を与えています。
キリスト福音教会 牧師さんも先生方も b(a^ゞ^t)an と同年代で 30余年後の今もお付き合いが続いています。 

JIJI 
の入院中に結婚式を挙げられたのも この先生方のおかげです。
その後保育園は、先生方が高齢となり園児の動きについて行けなくなって閉園となりましたが。

7年後の昭和61年4月に息子が生まれました。 頑固というか、筋が一本通っていると言うか   保育園には絶対に行かないと言いまして(給食の事で濡れ衣を着せられたとかで)幼稚園には喜んで通っていました。父親(JIJI) に送られて



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